takumikoのワーホリお仕事歴

こんにちは。メルボルンからワーホリ情報を発信しているtakumiko@kagaroodays717)です。

今回はわたしのワーホリお仕事歴を、仕事をゲットしたポイントなどと合わせて紹介します。

仕事探しはケースバイケースですが、これから仕事を探す方の参考になれば嬉しいです。

 

私は帰国を挟みつつ、カナダ、ニュージーランドオーストラリア(2年間)にワーホリビザを使って滞在しました。

最初は英語が喋れないどころか、日本での経験もなくて、真っ白の履歴書を前にあ然。しかし、1つ1つ積み重ねたら色んなことができるようになりました

 

日本では未経験者でも「教えて育ててあげよう」という姿勢がありますが、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアでは、教えなくても自分で仕事をすすめれる「経験者」を優遇する傾向がかなり強いです。

仕事探しをする上で、その場で自分をアピールしたり、この人と働きたいと思わせれる「人間力」も重要ですが、「経験」がカギになっているのも事実。

以下、わかりやすいように時系列で紹介します。(1万3千文字強とかなり長いので気になるところから見てもOK)

海外に出る前(~2013:浪人生)

塾講師

ワーホリで海外に出るまでは、勉強一筋のガリ勉で、高校卒業後は浪人生をしていました。

働いたことはほとんどなく、唯一ちゃんとお給料をもらう形でやっていたのは知り合いの塾での講師。小学校〜高校生まで、英語・数学・国語をメインに教えていました。

これが私の職歴の下地で、一番はじめに作った履歴書は中身が空っぽ

余白を目立たなくするために文字を大きくしたり、趣味とか英検3級とか意味もなく書いたり。。

カナダ・ワーホリ(バンクーバー:2013~2014)

最初は「おしゃれなカフェとかで働きたい」みたいな妄想を膨らませていましたが、「こんな職歴じゃ普通のところは受からない!」と早々に見限りました。(一軒だけ持っていってみましたが、惨敗。。)

手っ取り早く「経験」がほしいと、ジャパレス(日本食レストラン)を攻めました。

takumiko

英語で働いて英語伸ばしたい!ジャパレスだったらウィエトレスできるんじゃない??

ウェイトレス

ふら〜っと近所を歩いていたら見るからに日本人経営なラーメン屋さんが求人を出しているのを発見

定休日だったんですが、覗いてたら仕込みをしてる店員さん(日本人)が出てきてくれたので、履歴書を渡しました。

翌日、マネージャーの方から連絡が来て、面接の運びに。面接は日本語でしたが、ウェイトレス採用ということで簡単な英語での質疑応答を受けて無事合格。

面接では日本人らしく「あなたの長所は?」と聞かれたのですが、「どんなときでも笑顔で働きます!」と答えました。

後に、「正直、経験者が欲しかったけれど、笑顔が良かったので雇った」と聞きました。アピールは大事ですね。

 

店員さんは全員日本人でしたが、お客さんは基本的に英語話者だったので、仕事は日本語で教えてもらって、接客は英語という環境。

仕事はお客さんを席に着かせて、注文を取って、ラーメン運んで、レジして、片付けして、と外のことは全てやります。

小さいお店でしたが、何十人も並ぶくらい人気なラーメン屋さんで、忙しい時間帯はウェイトレスの間でも役割分担が進んでいました。

私は特に、お客さんをきちんと並べて、事前に注文をとって、イライラするお客さんをなだめて、空きが出ないように席を回すというのが仕事でした。

ウェイトレスは英語で会話するけれども、店内では基本的には同じような英語の使い回しです。

英語で話しかけることへの苦手意識を克服したかったので、積極的にお客さんと関わるポジションをさせてもらいました。

 

最初は経験として踏み台にするつもりで始めた仕事でしたが、給料も良かったし(基本給9ドル+チップ9ドル=18ドルくらい)、なにより居心地がよかったので、帰国ギリギリまで同じお店で働きました。

働いてみて

先輩に日本語で気軽に質問できて、その場で英語でアウトプットできる環境はとても効率的だった
・日本食屋さんなので親日なお客さんが多く、働いていて楽しかった
・バンクーバーという土地柄もあって、第二言語として英語を話していることにも理解があり、英語の拙い私はかなり助かった

日本語教師

自分のできることの幅を広げようと思い、日本語教師に挑戦しました。

ネイティブとして日本語は話せますが、だからといって教えれるとは限りません。文法などは感覚で話しているので、ほぼ無知です。

ちょうどバンクーバーに日本語教師を育成するコースがあったので受講してみることに。

日本語の基礎知識と英語ネイティブが間違えやすいポイントなどを学びました。講師はベテランの日本語教師で、自分が培ってきた教授法を気前よく教えてくれました。

 

卒業後は日本語学校のチューターのボランティアで肩慣らしをしつつ、Craigslistで生徒の募集をかけました。

マンツーマンで1時間25ドル。最初は応募が来るかドキドキでしたが、そこまで料金設定が高くないからか、思った以上に反応がありました。

生徒は全くの初心者から日本語能力試験に向けて勉強している上級者まで。授業自体はフリースタイルで、生徒さんの要望を事前にヒアリングして準備し、カフェで授業をしました。

働いてみて

・準備に時間がかかるのでそこまでコスパは良くないけど、新しい人と関われて良い経験になった
・日本を教えるという経験を通して、「日本ってすてきな国だな〜」と今までは無自覚だった日本の良さ再確認できた

日本帰国(大阪:2014)

ホテルのコンシェルジュ

カナダから帰国後は海外の大学に進学することを決意。それに従って、まずは日本で1年間海外進学用のプレスクールに通うことにしました。

が、段取りが悪かったので入学に間に合わず、約1年間の空きが生まれました。

1年もぷらぷらするのもあれなので、学生に戻る前に経験を貯めつつ、もう一度ワーホリに行こうと決めました。

日本で働くということに興味があったので、最初の半年は実家の近くで働くことに。

英語が使えて、日本のおもてなしが学べたらいいなということで、ホテルでコンシェルジュとして働くことにしました。

なんとなく始めたアルバイトですが、ここでの経験が後に繋がっていきます。。

ニュージーランド・ワーホリ(南島:2014~2015)

ホテルでの仕事を終えて、学生になるまでの半年だけワーホリでニュージーランドへ。

takumiko

「学生になるまでの間、ゆっくりしたい〜〜!」といことで平和そうなニュージーランドへ

B&Bのレセプション兼ハウスキーパー

仕事はしたくないけれど、滞在にお金もかけたくないということでエクスチェンジジョブ(1日数時間働く代わりに無料で宿泊させてくれる)を探しました。

ニュージーランド入りしたらすぐに滞在できるように、日本を発つ前に仕事を見つけておきました。

ネット掲示板で募集を見つけてメールに履歴書を添付して応募。給与が発生しない分、雇う側も気楽なのか即決で採用されました。

日本の名のあるホテルで働いていたというのも雇う上で安心感につながったそうです。

 

仕事は田舎町のB&Bでハウスキーパー兼レセプショニスト。日本人の家族経営の宿で、副業として空き部屋を貸し出していました。

お家の人はみんな働いているので基本は私1人で仕事を回します。午前中は朝ごはんの用意を手伝って、家の掃除したりベットメイキングしたり。

チェックインがあればお客さんのおもてなしをして、軽く観光案内。お客さんがいなければ、午後に芝刈りしたり、庭の手入れをしたりして過ごしました。

お客さんが少ない時期だったのもあって、1日の2〜3時間ぐらいの稼働時間。その他の時間は家でゆっくり本を読んだり、お散歩したり。

 

1ヶ月ほどお世話になりましたが、貯金が減ってきたし、あまりにも暇すぎて何かしたい気分になったので、クライストチャーチに移動して働くことに。

働いてみて

・望んでいたように毎日まったりと過ごせた
・事前に仕事を決めていたので、「着いてから仕事を探さなきゃ!」というプレッシャーがなかったのも◎
職歴としてレセプショニスト・ハウスキーパーの経験ができたのが後に活きることに

ゲストハウスでレセプショニスト

今回もまた、移動する前にエクスチェンジジョブを見つけておいて、とりあえずの滞在先は確保しておきました。

 

今回はバックパッカーが集まるような大きめのゲストハウスでのエクスチェンジで、ハウスキーパー兼レセプションのお手伝いとして雇われました。

週4回、午前中に4時間半働いて、ドミトリーのベット1つがもらえるエクスチェンジでした。

 

日本人経営のゲストハウスで、エクスチェンジは全員ワーホリの日本人。レセプションは永住している日本人と英語が話せるフランス・スペインからのワーホリ、お客さんは日本・フランス・ドイツ・イギリスからのワーホリという環境でした。

 

午後に働ける仕事を探そうと思っていましたが、ちょうどゲストハウスで有給レセプションのポジションに空きが出ており、働いてみないかと話が回ってきました。

経験もあるし、英語が話せて愛想がいいというのが主な理由だったようです。

 

1週間のトライアルの間、電話の取り方や英語でのおもてなし、クレームの対応の仕方など指導を受けた上で、本採用になりました。

朝はエクスチェンジとして働き、午後は有給で働くという生活。

 

仕事内容はチェックイン・チェックアウトの管理、観光案内、電話の対応、暇があれば掃除。

当時クライストチャーチは地震後の建設ラッシュで、建設系の仕事をしている長期滞在のワーホリが私の宿では多かったです。

なので人の動きはそこまで多くなく、私の主な仕事は滞在者と上手くコミュニケーションを取ることでした。

私も同じ建物内に住んでいたのでお客さんとの距離が近く、居心地がよかったです。

 

特に不満もなく、毎日楽しく働けたので、日本に帰国するまでここで働きました。

働いてみて

・自分からお客さんに声をかけてコミュニケーションをとらなければならず、英語が飛躍的に伸びた
・ここでの経験から自分でゲストハウスを開きたいという夢ができた

・エクスチェンジと掛け合わせたので生活費が少なく済み、お金が貯まった

日本帰国(学生:2015)

色々な仕事にチャレンジ

ニュージランドが思った以上によかったのですが、ワーホリ前に日本で学校に通うことが決まっていたので、泣く泣く帰国。

正直「大学はもういいかな〜」なんて思っていたので、学生するだけじゃ時間がもったいないと思い、積極的に行動しました。

飲食やイベントスタッフや学校の広報、コワーキングの企画運営、巫女さんバイトなど、いろんなことにチャレンジし、経験値を貯めました。(履歴書に書けるネタが増えました)

オーストラリア・ワーホリ(パース・カルグーリ・メルボルン:2016~2018)

「やっぱり大学は行かない」と方向を変えて、オーストラリアへ渡航。先に彼氏がワーホリでパースに滞在していたので合流しました。

彼氏が漁師として働きたいというので、パース近郊の港町・フリーマントルに移動しましたが、時期が早く、仕事が見つからない。

私も陸でホスピタリティー系の仕事を探していましたが、夏の盛りが過ぎた2月末で、どこもこれから営業が縮小傾向にあると、雇ってくれるところはほとんどありませんでした。

唯一ベトナム系のレストランでウェイトレスが見つかりましたが、時給が低すぎて却下。

フリーマントル中のレストランを回っても面接にすらこぎつけれず、焦った私たちは貯金を作りにファームへ行くことにしました。

takumiko

いっぱい働いて、貯金作るぞ!!

ファームハンド

日本語の求人掲示板でキツイけれど時給が30ドルを超えるという仕事を発見し、すぐに応募しました。

そこで働いている日本人スタッフと電話で軽い面接を受けて、2人一緒に採用。ファームへ移動しました。

ブロッコリーニというブロッコリーとアスパラの間の子みたいな野菜を収穫し、パッキングする仕事だったのですが、これが地獄のような仕事でした

 

韓国人スーパーバイザーの元、軍隊式のスパルタな方法を取り入れていて、私語はもちろん、働いている間は歩いちゃダメで、常に小走り。上下関係が激しく、常に先輩の言うことは絶対。

一致団結するためか、なぜか韓国語で「頑張れ!」と叫ばされる。また、仕事が遅い人は容赦なく罵倒されました。

働いているのは韓国・台湾・香港・日本人。みんな体を痛めながら、お金とセカンド欲しさに必死に働いていました。

私は力も体力がなく、不器用で、明らかにこの仕事には不向き。自分なりには頑張っているつもりでしたが「遅い」「のろま」とみんなに怒られ続けました。

理不尽に怒られることもあって、さすがに言い返したのですが、英語がわからない人ばかりで伝わらずイライラ。

休憩時間に笑っていたら日本人の先輩も「ヘラヘラするな」となぜか怒られ、もう彼氏しか見方はいない気分。

腱鞘炎と腰痛に苦しみながら、「もう、こんな仕事やめてやる〜!」と毎日泣きながら出勤していました。

 

仕事を初めて1週間、私より仕事ができない女の子がクビになり、「次は私か。クビになるくらいなら自分で辞めよう」と決意したその日、パースから一本の電話が。

「明日からフリーマントルで漁師をしないか」というお誘いでした。しかも2人揃って採用すると。

ということで、1ミリの未練もなく即日でファームを辞め、漁師生活が始まりました。

働いてみて

・地獄のような1週間だったけど、ファームを体験し、人には向き不向きがあること、ときにはきっぱり諦めることも大切だと理解した
・のちにセカンドビザの取得のために季節労働を探した時、この体験のおかげで農業という選択肢が私にはなかったので、結果的に新しい世界を開くきっかけになった

漁師

電話をくれたのはフリーマントルでイワシ漁をしているおじいちゃんでした。

ファームに行く前に最後の希望として、2人の履歴書を港のトイレに貼り付けておいたのですが、それを見て連絡してくれたそう。すぐに人が欲しかったのか「とりあえず来てくれ!」ということで、特に面接はありませんでした。

 

イワシ漁は日帰りの漁で乗組員は、船長のおじいちゃん、若者2人、彼氏、私の5人でした。

朝3時ぐらいに出港し、船長がイワシをレーダーで探します。その間は他のクルーは待機。

イワシの群れを見つけ次第、網を投げます。網を投げたあと機械でで網を回収するのですが、私はこの機械の操縦担当。レバーを動かすだけなので超楽チンです。

賃金は歩合制で、おじいちゃんの話だと1日3時間くらい働いて200〜300ドル稼げると。週5で漁に出て、土日はおやすみです。

 

「めっちゃええ仕事や!」と喜んだのですが、そんなうまい話は転がっているはずもなく、時期が悪いらしく、全然釣れない

群れを発見しても、おじいちゃんが下手くそなのか、大量に逃してしまう。網に大穴が開いてしまったり、イルカの群れが乱入したりとハプニングも絶えない。。

心配する私たちに、おじいちゃんは「時期が悪いんだ。もうちょっとしたら釣れるようになるから!」と励ましたり、「イルカが悪いんだ!」と言い訳したり。

釣れなかったら2人とも無給なので、私たちにとっては死活問題です。

おじいちゃんはイワシを加工する工場も経営していたので、そこでファクトリーハンドとして働かせてもらって、なんとか生活費を稼いでいたのですが、それもイワシがなければ仕事にならない。

 

節約のために釣った魚を食べたりしながら2ヶ月はなんとか食いつなぎましたが、もうこれ以上はダメだ!と他のバイトを掛け持ちすることに。

平日の10時以降と土日は確実に空いていたので、ウェイトレスハウスキーパーの仕事を見つけ、漁師と工場と合わせて4足のワラジ生活を始めました。

今度は仕事を入れすぎてキツキツのスケジュールにになりましたが、意外と楽しくやれました。同時にシェアハウス運営も始めて出費も減り、銀行口座の数字が膨れ上がっていくのが楽しかったです。

 

4ヶ月目まで漁師は続けましたが、一向に釣れ始める様子はありませんでした。

ある日風邪をひいて漁を休んだところ、次の日からおじいちゃんが「ダーリン、無理しなくていいんだぞ、もっと休んでいいんだぞ」とお暇を与えるように。

実を言うと漁は4人でできるもので、力のない私は居なくても大丈夫という存在でした。(なのに給料はみんなと同じ分だけもらってた)

「あぁ、おじいは私にやめてほしいんだな」と感くぐり、他の仕事も軌道に乗っていたので、ここで船を降りることに。

 

彼氏はそのまま働いていたので(後々は釣れるようになりました)、その後は誰かが寝坊したり、休みがほしいときに助っ人で漁に参加することになりました。

働いてみて

・全然儲からなかったけど、第一次産業の大変さが身にしみてわかった
・毎朝、地平線から朝日が昇る絶景をみたり、イルカの近くで働いたりと色んな特別な体験ができてよかった

参考 オーストラリアで漁師になった話カンガルーデイズ

ウェイトレス

漁師があまりにもお金にならないので副業を始めました。

探し始めたのは4月の終わり。冬がまだ始まっていない2月末でさえ見つからなかったのに、求職は絶望的です。求人広告も全然更新されません。

ジャパレスは給与が低いという印象だったので前回は避けて通りましたが(唯一面接したマーケット内の寿司屋は時給9ドルでした)、緊急事態だったので、飛び込みで履歴書を持って行ってみることに

するとフリーマントルは日本人が少ないからか、一気に2箇所で仕事が決まりました。

 

1つは日本人経営で日本人しか雇わない、ザ・ジャパレス。

まだ働いてもいないのに「始業時間の5分前にはお店に立つの常識だから」「病欠はなしで、入院する以外は絶対にお店に来て。店側が働けないか判断するから」と最初からブラック丸出し。

しかも時給は18ドルと最低賃金以下で、そのことについて尋ねると、「どこもこれでやってるから」と開き直る。最低です。通りで人手が足りていないわけです。

 

もう1つはオーストラリア人経営の高めの日本食レストラン。

ちょうど辞める人のでこれから募集をかけようというところに私が履歴書を持ってやって来た、と後から聞きました。これは履歴書を配るメリットですね。

ウェイトレスは食べ物を運ぶだけでなく、お客さんとコミュニケーションを取って交友を深めてほしい、事業拡大につながるようなパッションのある人材がほしい、とオーナーは面接で熱弁しました。

時給は18ドルでしたが、こちらの方が学ぶことが多そうだなと思い、前者は辞退しました。

 

スタッフはキッチンは日本人シェフを雇って本物の日本食を出し、表はオーストラリア人と日本語が流暢な日本人で固めて円滑なコミュニケーションを取るという感じでした。

お客のエスコートの仕方から、メニューの説明、ワインの注ぎ方、カクテルの作り方、お客さんとの談笑の仕方など色々学びました。

勉強の甲斐あって、私に会いに来てくれる常連さんもできて働くのは楽しかったです。働くメンバーも良かった。

 

ちょうど彼氏と「オーストラリアに永住したいね」と言う話が出てきていたので、ここなら長く働いてもいいかなと考えていました。

しかし、実際にその話を持ち出すと、オーナーは「みんなワークビザが欲しくて、お金を積む人だっているんだ」と賄賂を要求してきました。

ワークビザを出してもらって働いているキッチンスタッフに話を聞くと、ビザの費用は全部自己負担したと言います。(大半は雇用側が支払うことが法律で決まっています)

規定の有給も取れないし、年俸も法律で決まっているものより少ない、という現状もこっそりと教えてくれました。

私のもらっている時給も最低賃金を平気で下回っているし、面接では後で上げるという話だったのにその兆しは全くありません。

儲かっていないのかといえば、そうでもなく、メルボルンに支店を作っていると聞いていました。

オーナーのことは色々勉強させてくれる良い人たちだと思っていましたが、次第に立場の弱いものからお金を吸い上げるブラックな経営者であることに気がつきました。

 

そんな話を聞いているうちに状況は変わり、最初は諦めていたセカンドビザを取りにカルグーリへ移動することに。

ここでワークビザはないなと自分の中でバッサリ切れましたが、悔しかったのでフェアワークス(労働局)に通報してサヨナラしました。

働いてみて

・ホスピタリティーとして日本とは違ったスタイルのおもてなしが学べてよかった
・正規の時給を払わない奴に良い人はいないと、これからは絶対に最低時給以下で働かないと心に決めた

ハウスキーパー

ウェイトレスと同時に見つけたのが、パース市内のホステルでの仕事。土日に働けて、レセプションもハウスキーパーもできるオールラウンダーの募集でした。

求人サイトで見つけて仕事内容も時給もよかったので、「これは是非やりたい!」と、カバーレターを書いて、履歴書も専用に書き直して、本気で応募しました

経験がかわれてかすぐに面接に進み、仮採用。一応2日間のトライアルを経て採用となりました。

レセプションがしたかったのですが、土日のレセプションのシフトが埋まってしまい、ハウスキーパーとして採用されました。

採用の理由には、日本人は真面目に働いてくれるし、日本人のお客さんも増やしていきたいから日本語係がほしいという理由もあったようです。

 

同僚はオーストラリア、台湾、韓国、香港、ブラジル、と多国籍。オーストラリア人の経営者で、しっかりやってくれるならのんびり働いてもいいよという雰囲気で働きやすかったです。

忙しくなければ同僚とおしゃべりしながら、または音楽を聴きながら、ベットメイキングをしたり、掃除したり。

私に「そんなに頑張らなくていいのよ!」と声をかけるぐらい、みんなゆったりと働いていました。

セカンドビザためにカルグーリに移動することになり、辞めることになりましたが、のちに今度はレセプショニストとして戻ってくることになります。

働いてみて

・採用がとてもスムーズだったので、やはり経験は力なりと思った
・やっぱり宿の仕事は楽しいなと再確認
・やることだけやって、あとは楽しく働くというのがオーストラリアっぽくて好きだなと思った

シェアハウス運営

これは仕事ではないですが、「いつか自分たちの宿を開きたい」という彼氏と話していて、その練習台としてシェアハウスを運営してみることに。

賃貸でのシェアハウスは又貸しになるので難しいこともありますが、家主の許可さえあればできます。朝早くに漁に出るので港の周辺に住みたかったのですが、海が近いと家賃も高い。

2人分の家賃と考えるとシェアハウスで部屋を借りるのも、一軒家を借りるのもそんなに差が出ないのでは?と考えました。

たまたま良いロケーションに貸し家を発見し、大家さんの許可も取れたので、挑戦してみることに。

庭付きの4LDKで週375ドル。シェアハウスでは週250ドル払っていたので、毎週125ドルのリスクです。あわよくば、自分たちの家賃を0円にしてやろうと企みつつ、シェアハウス運営が始まりました。

 

家具を集めたり、電気屋やガス、wifiなど設定するのが大変でしたが、なんとかセットアップを終えました。

一番大変だったのはシェアメイト探し。始めたのが冬ど真ん中だったので、最初は中々人が入らず赤字が続きましたが、春が近づくにつれ、入居者が集まりました。

海まで徒歩5分、バス停、スーパーまで徒歩1分と良立地だったので、その後は空き待ちの状態に。

私たちは管理者として大家に家賃を払ったり、家を掃除したり、備品を買い足したりするだけで家賃は0。大成功でした。

 

1年半後、メルボルンに移動することになったので、シェアメイトの1人が引き継ぐという形で、家具ごと引き渡しました。

働いてみて

・リスクはあっても、自分で生活環境を整えれるのは快適だと思った
・シェアメイトを選ぶという経験から、人を見る目がついた気がする
・やってみてわかった大変さは、自分たちがビジネスするときに役立つと感じた
・家賃がかからないぶん、よく貯金できた

ステーションハンド

2017年8月(ワーホリ7ヶ月目)、オーストラリア移住を見据えて、やっぱりセカンドビザがほしい!ということに。

ワーホリ期間も残り5ヶ月で、11月末の自分の誕生日には一度日本に帰国したいという諸事情もあり、かなり切羽詰まった状態でした。

しかし、以前ファームに行って、苦い思いをしたので農業は絶対にやりたくないと思っていたので、ハードルは上がります。

彼氏が大工としてセカンドビザをとっていたので、私も農業以外で何かできないかと模索することに

 

オーストラリアの求人サイトで季節労働にカウントできる仕事を探し、履歴書を送りまくりました

いくつか仕事を見つけましたが、どこもかなりのリモートエリアだったので車の運転できることが必須。運転免許を持っていない私は中々条件が合いませんでした。

そんな中で見つけたのがステーションハンドの仕事。オーストラリアでは辺鄙な場所にある仕事場や建物のことをステーションと言い、そこで働く人のことをステーションハンドと言います。

 

ステーションハンドとしか書いていなくて、詳細は不明でしたが、セカンドビザににカウントできると書いてあったので、あえてあまり聞かずに飛び込むことに。(聞いたらめんどくさいと思われて採用されないんじゃないかと危惧しました)

カバーレター内でいろいろアピールはしたのですが、その中でも「漁師やってたから、大概の汚い仕事も過酷な環境も耐えられるよ!」と漁師時代の写真付きで書いたのがウケたらしく、採用が決まりました。

場所はパースから内陸に700kmの位置にあるカルグーリという町。ゴールドラッシュで栄え、今も現役で金を採掘しています。家を彼氏に任せ、特急電車で移動しました。

 

私の働くステーションは町から車で40分離れた場所で、プレハブがぽつぽつ立っている剥き出しの大地。ネットは疎か、電波すら届かない場所で、まさに辺境でした。

鉱山業は同僚は体の大きな男の人ばかりだと聞いていましたが、私のように体の小さい女の子もちょっとだけいました。みんな基本的にお金を稼ぎに来たオーストラリア人で、外国人は私だけでした。

仕事は簡単な雑用で、いわばお手伝い。ものを運んだり、在庫を管理したり、道を作ったり、フェンスを立てたりと、できる仕事はなんでもしました。

生活環境はプレハブの個室をもらえて、食べ物は専属のシェフが作ってくれると中々悪くない。

ネットも使えないので、やることといえばテレビを見るか、本を読むか、お散歩するかぐらい。周りにはカンガルーやトカゲ、羊などが住んでいたので、よく探検して遊びました。

 

ここでの生活は気に入りましたが、彼氏の元に帰りたい気持ちもあって、きっちり3ヶ月間働いて、パースに戻りました。

働いてみて

・アウトバック(中央オーストラリア)という都市部以外のオーストラリアで生活できて良い経験を得た
・セカンドビザも手に入ったし、お金を使う場所がなかったのでよく貯金できてハッピー

・ネイティブに囲まれて英語が伸びると思いきや、おじさんたちのオーストラリア訛りが全然聞き取れず、逆に英語力が下がった(笑)

参考 セカンドビザはほしいけれどファーム(農業)はしたくない、というあなたに朗報です!カンガルーデイズ

ホステルのレセプショニスト

セカンドビザを無事取得し、パースに戻りました。

以前働いていたホステルから戻ってこないかとお誘いがあったので、レセプションやらせてくれるならという条件で復帰することに。

いわゆるコネで難なく仕事をゲットしました。

事前に「いついつにパースに戻ってくるよ」と伝えていたので、ポジションを開けておいてくれたそうです。

 

レセプションの仕事は大体わかっていたので、予約の管理の仕方などPCの使い方を簡単に教えてもらい、すぐに独り立ち。

このホステルでは通院患者の一時的な滞在先として部屋を売っていたので(西オーストラリアには大きな病院があまりなく、病院に通うために遠方からパースにやってくる)、病院や保険会社などと支払いのやり取りをすることが多く、電話での対応が増えました。

また、そういった宿泊者にはアボリジニ(オーストラリアの先住民)も多かったので、今まで知らなかったオーストラリアとアボリジニの関係なども知るきっかけになりました。

自分のゲストハウスを作るという目標のために経営を学びたかったので、オーナーにお願いして経営関係のことも少しずつ任せてもらいました。

 

宿には多種多様な人が宿泊しており、行儀のよくないお客さんに行き当たったり、ホームレスが侵入してくることも。

問題が自分たちで解決できないレベルに達する事も多く、警察を呼んで対処してもらうという事もよくありました。

レセプションが空いていない間にお客さんの対応をする、ナイトセキュリティーもやらせてもらいました。宿の周りは治安があまり良い方ではなく、夜は特に問題が起こりやすかったので、問題への対応力が養われました。

 

この頃から彼氏とオーストラリアに移住するという話が進んでおり、彼氏がメルボルンでフルタイムの仕事が決まったので、パースを出る事に。それに伴い、仕事も辞める事になりました。

働いてみて

・「働きたい!」とアピールしておくことは大事だなと思った

・ゲストハウスを開いたいという夢に向かって、いろいろなことが学べた
・人に恵まれ、どんな仕事をするかよりも、どんな人と働くかが大事だなと思った

ハウスキーパー

田舎町パースから大都会メルボルンに移動しました。

パースでは比較的最低時給を守っているお店が多かったのですが、噂では東海岸では価格崩壊が起こっており、13ドルとかで働くのが普通という話を聞いて、震え上がっていました。(実際にそのようなお店も多いです)

以前働いたジャパレスでの経験から、「絶対に時給は妥協しない!」と心に決めていたので、仕事探しは難航するかと思いきや、あっさり決まりました。

 

メルボルンは規模が大きいので仕事の数も膨大です。求職者も多いので、行動を早くしないとすぐに仕事を取られてしまいます。

移動してきたばかりで土地勘がなかったので、まずはネットで求人サイトを目を皿のようにして隅から隅までチェックしました。ビザの残りも少なくなってきており、少し焦りの気持ちも。

「良い仕事をすぐにゲットするには”経験”をゴリ押しするしかない」と思い、ゲストハウスやホステルでの仕事を中心に探すことに。履歴書も気合を入れてバージョンアップし、良いと思ったところにはしっかりカバーレターをつけて応募しました。

 

仕事を探し出してすぐにめぼしい仕事を見つけ、自分ができる最強のアプローチ文を書いて履歴書とカバーレターと共に送りました。すると、気合が功をなしてか、面接の案内がすぐに来ました。

大型のホステルでハウスキーパーの仕事で、翌日面接を受け、前職のレファレンス(推薦)が良かったのもあって、その場で仮採用になりました。

忙しい現場なのでテキパキ働けるか見るために、同時に仮採用になっていたチリ人の女の子と一緒にトライアルを受けることに。1週間のトライアルの後、晴れて合格。(長かった!!)

 

仕事は掃除とベットメイキングと普通の内容でしたが、300人規模のホステルで仕事の量が半端じゃない。

前職とは違ってテキパキ働かなければなりませんでしたが、その分お給料がかなり良かったので頑張れました。

同僚は永住者している主婦がメインで、アジアと南米系が多かったです。

みんな何年も一緒に働いていることもあって仲が良く、みんなでランチしたり、誕生日会したりと、アットホームな雰囲気が心地よかったです。

 

ワーホリビザが切れるタイミングで、今度は雇用されるばかりでなく自分の力で稼げるようになりたいとフリーランスになったので、こちらの職場は退職しました。

働いてみて

・仕事が決まるまでのスピード感から、経験を重ねることの偉大さを感じた

おわりに

かなり長くなりましたが、以上がワーホリ時代に行った仕事です。

現在はもうワーホリではなく、彼氏と永住権の準備をしつつ、フリーランスライターとして、メルボルンを拠点に世界を駆ける仕事をしています。

最初はなんの経験もない(しかも英語もしゃべれない)状態でしたが、最終的には「海外で働く」ことへのハードルはかなり下がりました。

ワーホリを通して、難しそうに見えることも、一つずつステップアップしていけば手が届ことが実感として得られました。

やりたいことは人それぞれ違うと思いますが、ワーホリで働くことに関して少しでも参考になれば嬉しいです。

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